最終章に「札幌で生きるには」というタイトルをつけてはみたが、なかなか原稿が書けなかった。私は札幌で雑誌社に勤め、フリーライターとなり、その後、編集プロダクションを設立したが、学歴もなく人脈も乏しい中で、なぜ仕事を続けてこられたのかが、自分でもよく分からないからだ。
困ったときやピンチのときは、いつも誰かに助けていただいた。たくさんの人に感謝しながらの道のりだった。 時にはミスや勘違いもあった。しかし、「クライアントにも読者にも、喜んでもらえる仕事をしたい」といつも真剣だった。真剣にお詫びをし、真剣に原稿を書いた。手を抜かない。誤魔化さない。裏切らない。当たり前のことを当たり前にやる。これが、私の信条だった。
フリーライター時代を振り返って思うのは、一つ一つの仕事を的確に誠実にこなすことがいかに大切であったかということである。
ライターが書く原稿は、料理に似ている。私の大好きな「かぼちゃコロッケ」を例えにするなら、その調理は、美味しいかぼちゃを仕入れることに始まる。ホクホクとした甘味のあるかぼちゃでなくては美味しいかぼちゃコロッケを作ることはできない。かぼちゃの種をとり、皮をむいてひと口大に切る。 蒸気の上がった蒸し器にかぼちゃを入れてやわらかくなるまで蒸し、熱いうちにつぶして、バターと生クリーム、塩コショーをし、手早く混ぜる。楕円形に形作り、小麦粉、溶き卵、パン粉を順につけ、油で色よく揚げる。
ところが、じゃがいもを仕入れたら、かぼちゃコロッケにはならない。種を取らなかったり、蒸す時間が足りなかったり、塩コショーしなかったら、美味しいコロッケにはならない。原稿も同じだ。かぼちゃは「ネタ」で、仕入れは「インタビューや取材」だ。一連の調理作業は「執筆」で、盛り付けは「校正」だ。文字が並んでいると一見仕上がっているように見えるが、手抜き料理同様、手抜き原稿はすぐにわかる。
忙しさを言い訳にして、確認作業を後回しにして忘れたり、校正に時間をかけずに入稿したりすると、後で必ず「しっぺ返し」をくらう。活字になって、読者の手に届いてからの「訂正やお詫び」は過大な迷惑となり大変な労力を必要とする。
以前、ライタースクールの講師をしていたときに、生徒がインターネットのHPの文章をそのままペーストした原稿を提出したことがあった。手抜きをすれば、すぐにばれる。手抜きの積み重ねは、確実にライター人生を短命にする。手抜きは信用と仕事を同時に失うのだ。そして、どんなときでも、仕事や取材先で出会った人と真摯な気持ちで向き合えるように、常に自分を磨くことも必要だ。
また、自分の身は自分で守らなければいけない。会社が守ってくれるサラリーマンと違い、フリーライターのことは、だれも守ってくれない。
以前、私は広報誌制作の依頼を広告代理店から受けた。仕事を納めて、請求書を書く段階になって、「予想していた以上に経費が膨らんだので」と、当初の金額よりも値切られた。「約束が違う」と不満を訴えたが、結局は承諾した。ところが支払日になっても振り込まれない。結局、裁判を起こし、制作費を受け取った。ギャラのトラブル、嫌がらせ、不正行為。こんな会社も札幌にあることを知っていた方がいい。近年は著作権のトラブルも増加しているので、法律の勉強もある程度は必要だ。
フリーライターの仕事を支える組織や組合はない。ミスもトラブルもそのまま自分に跳ね返る。走りながらも慎重に相手を見極めなくてはいけない。自由だが孤独な戦いになる。
だからこそ、仕事仲間との交流を大切にして欲しい。私は、新聞社や雑誌社に勤めている記者との家族ぐるみの交流が、「リフレッシュできる楽しい時間」になっている。いつものメンバー6人に家族や友人を加え、年に3、4回集まる。スポーツや温泉を一緒に楽しみ、お酒も飲む。仕事上の情報を交換したり、今後の方向性を相談し合ったりする。
フリーライターは、たくさんの人に支えられて存在する職業だ。社会的に自立するためにも、いつまでも「一匹狼」を気取っていてはいけない。東京でも、札幌でも同じことである。札幌で生きられないライターは、東京でも生きてはいけない。そして、札幌でライターとして生きると決めたなら、何があっても逃げ出さないことだ。困難や試練は必ずある。わが道を貫くために必要なのは、それを乗り越えるための「覚悟」と「能力」である。
あとがき
新人のころは、自分が書いた文章が掲載される喜びと面白さを常に感じていた。どんな小さな記事でも、家族や友人に読んでもらいたくて仕方がなかった。取材先で得た知識が新鮮で面白く、インタビューした人物からもらうエネルギーが刺激になった。取材先から「私が言いたいことをちゃんと書いてくれた」と感謝されたり、読者から「素敵なお店を紹介してくれてありがとう」と書いたハガキをもらったりすると、小躍りしたくなるほど嬉しかった。
しかし、仕事が「フリーペーパー」から「新聞」や「書籍」へと移ると、視点の定め方や書く責任を求められるようになった。そうした中、私が行き着いたのは、「何を何のために伝えるのか」ということだった。
自分が書いた文章でどんな価値を提供するのか。読み手に何を感じて欲しいのか。これが、ライターという仕事の大切な役割であり、社会的な意義ではないかと考えるようになった。事実を記し、理由を示し、心からそう思えることだけを書く。「書くこと」は「考えること」だ。思考過程を誤魔化すと中途半端なものになる。だから、いつも真剣勝負でなくてはならない。
「何かを伝えるために挑む真剣勝負」。これが、ライター業の面白さだと思っている。
